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13件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[14] <京都歴史研究会10月講演会のご案内>

投稿者: 京都歴史研究会・代表 投稿日:2016年 9月16日(金)07時05分23秒 fpoym3-vezC1pro12.ezweb.ne.jp  通報   返信・引用

<京都歴史研究会10月講演会>

【安政の大獄】発端から悲劇の結末へ─

◆演目:水戸藩京都留守居役 鵜飼吉左衛門、幸吉父子と安政の大獄について

◆日時:平成28年10月15日(土)
    13時~16時30分

◆会場:京都アスニー/3階
第2研修室
京都市中京区聚楽廻松下町

◆入場無料、予約無し
先着60名までは資料配布あり

◆講師:鵜飼 裕(鵜飼吉左衛門の玄孫)

ゲスト:梅田昌彦(梅田雲浜の玄孫・元大阪芸大教授)

◆内容:京都留守居役の鵜飼吉左衛門・幸吉父子が、孝明天皇から水戸藩宛の勅書を受け取りました。(戊午の密勅)
内容は幕政改革や、大老・井伊直弼排斥を促すものでした。

幕府を超えて直に水戸藩に下された為、これが引き金となる大粛清(安政の大獄)により、鵜飼父子は死罪となりました。

何故、鵜飼父子は死なねばならなかったのか!?
その無念の死の真実を、157年後の現代、御子孫の鵜飼 裕さんが訴えます。


◆補足解説:鎌田泰弘(安政の大獄の原因、戊午の密勅の重要人物[日下部伊三治]の話)

◆主催:京都歴史研究会




[13] 携帯用掲示板から転載

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 9月 2日(金)13時52分49秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

新撰組余談     杉 さんぼく
以下、三条旅宿改め池田屋事件余談です。
同時代史料で捕縛メンバーからの裏付けはありませんから、池田屋事件騒動は冤罪だったかも…、というのはあながち間違いではないかも知れませんね。ここに、京都知事だった北垣國道(晋太郎)の日記「塵海」があります。その明治三十二年一月二十四日の条に、北垣國道は以下の様に記しました。一月二十一日海舟危篤の記述に続く海舟薨去の訃報を、二十四日勝精から知らされてのその余話回想を綴るのです。

「維新ノ前元治甲子年六月…勝先生大坂二寓ス。國道之レヲ訪フ。…國道云、本月六日京都池田屋ノ変アリ。我輩同志ノ士多ク殺戮及ヒ捕縛セラル。…先生ノ門下坂本・千屋・望月等皆我信(ママ)友ナリ…。先生云、志士輩ハ如何ガスルカ。國道云、我が同志者坂本北副河田ノ輩、東西数百蝦夷ノ開拓ヲ図ル。此ハ先生(勝海舟)門下生中同意者頗ル多シ。故二此同志ハ大平山ニモ加ハラス、又長州ニモ走ラス、多ク京摂ノ間ニ潜伏シ、不幸ニシテ池田屋ノ変其有力者多数ヲ斃サレタリ。…故ニ北地策ハ全ク瓦解セリ。大仏南門前水口藩仮寓ト称シテ器械弾薬ヲ準備シ、又四条小橋西古高俊太郎別宅ヲ借リ、革具足製造所トシテ、大高又次郎之レヲ統轄シ、数十ノ壮士ヲ職工トシテ、日々具足ヲ制作シタリ。
此両所六月六日ニ襲ハレタリ。右ハ三十六年前、余二十七才同志者ト謀リ勝先生ヲ訪ヒ…実ニ一場ノ夢ノ如シ…」

 ここに同志と記されたのは、蝦夷視察経験ある北副佶馬、その話を参考にしようとしていた坂本龍馬、河田左久馬等ですが、海舟が保護しつつあった浪士たちを、蝦夷開拓にと協議していた、だから池田屋での話題にもあがったのではないか、とは飛躍かも知れません。。同時代史料ってないんですかねえ、やはり。
(参考:塵海日記-北垣國道子孫・白倉光夫氏蔵1986年~後に京都総合資料館寄託、2010年活字化により図書館で見られます)
資料
元冶元年六月六日・池田屋事件の町奉行引き渡し
大鷹屋忠兵衛 四十二歳
西川耕蔵 四十二歳
松村重助 四十三歳
瀬尾幸十郎 三十一歳
大中主膳 十六歳
澤井帯刀 二十三歳
入江彦助 三十七歳
官藤主水 三十三歳
森主計 十八歳
内田太郎右衛門 二十二歳
佐藤一郎 三十一歳
近江屋きん 二十二歳
和泉屋手代・幸二郎 三十・五歳
和泉屋重助 四十五・六歳
丹波屋次郎兵衛 四十九歳
同人倅・万助 二十六歳

(中山忠能履歴)
●捕縛の六角獄舎収監者
大鷹屋忠兵衛 四十二歳
西川耕蔵 四十二歳
松村屋重助 四十三歳
大中主膳 十六歳
瀬尾幸十郎 三十三歳
澤井帯刀 二十三歳
内山太郎右衛門 二樹八歳

近江屋きん 二十二歳
佐藤一郎 三十一歳
宮津屋三郎右衛門 四十六歳
松下喜三郎 二十歳
近江屋とき 二十七歳
吉兵衛 三十二歳
近江屋宇兵衛 四十三歳
勇助
桝屋喜右衛門 三十六歳
池田屋惣兵衛 五十六歳
豊後屋友七 四十八歳
同人倅・久蔵 二十一歳
和泉屋弟分・幸次郎 三十三歳
和泉屋重助 四十三歳
丹波屋次郎兵衛 四十三歳
同人養子・万助 二十六歳
木村甚五郎 二十八歳
百姓・越二 三十歳

兼次郎 二十一歳
伊勢屋又七 二十五歳

正徳寺弟子・念道 七十歳
永寿院僧・光山 二十二歳
池田屋入江彦助 三十一歳
官重主水 三十三歳(佐伯稜威雄)

森主水 十八歳

丹羽出雲守 三十一歳
川勝寛治 三十五歳
河村能登守 四十五歳
吉川兼治 三十九歳
(新選組池田屋夜襲一件)

★大国家文書(風聞書留)
六月五日昨昼後.四条真町江向ケ壬生浪士様之者八人下部三人罷越.枡屋喜右衛門方ニ而土蔵ニ有之候左之品-武着類.興桑方壱ツ.桃成形壱ツ.鎧弐ツ.陣笠取合五ツ計。
★若杉家日記 6月5日壬生浪士乱謀もの召取相成.アレコレト怪我人者多分切殺候也。

京都の資料「人のうわさ」(京都総合資料館蔵)によれば、古高俊太郎から押収されたのは以下の通りとあります。
「…具足七領、鑓拾本、鉄砲拾挺、塩硝沢山」
「木砲数門、甲冑拾領、砲弾丸一発、竹筒入り火薬五本」(古高自白部分)

そして、近藤勇書簡。
「…甲冑拾壱領、槍二十五筋、木砲十貫目位五門、短筒三挺、火薬大筒壱本、一重藤弓拾壱張、矢五百筋、他外着込、長刀、武器類五持有之…」
あと、書簡類がありましたが、陰謀には関与しない私的な書付ばかりでした。大仏辺の元山七郎からは 「鑓五本、具足類二荷、内二具足二領…」
実はこれら以上に、四条千本某所から押収されています。
「…大砲の玉つづらに六盃、松烟(硝煙)多分二買い込み、大坂より西高瀬にて積み登りし鉄砲、大筒、船に六盃も差し置きにあいなり…(俊太郎)同類の者、近江屋菊次郎二十一歳、正法寺弟子・念道七十歳、同永寿院・光山四十二歳、枡屋喜右衛門、伊勢屋又七三十五歳」(改訂肥後藩国事史料)
 古高の武具類に比べて、大掛かりなつづら六盃の砲弾、大量の硝煙、川船六盃の鉄砲、大砲等…、これらの武器弾薬を何に使おうとしていたのでしょうか。

資料=(鳥取藩風聞禄)
新撰組油小路事件の死体検案書

一、藤堂平助(南部弥七郎)弐拾八、九才位
疵所両足、横腹弐ケ所。
面上鼻より口へ掛(け)深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て。
一、同所辻北東手に倒れ果て居り候ものは、三宅安兵衛(服部武雄)三拾才位
疵所背中数ヶ所、これは倒れ候ところを散々に切り付け候趣にて、疵の数分からず。
うつむせに倒れおり候を、翌日あおむけ候ところ、腕先三ヶ所、股脚四、五ヶ所、かか先(踵)一ヶ所、胴腹一ヶ所、流血夥し。
一、油小路通七条少し上ル東側へ寄り倒れ果て居り候は、寺(毛)内監物 三拾弐、参才位
疵所書き尽くし難く、五体散々離れ離れに相成り、実に目も当てられぬ斗に御座候。
傍に刀の折れ候儘捨てこれあり脇さし握り候儘果て居り候。(鳥取藩慶応丁卯筆記より)
井上泰助が井上源三郎の首を埋めた余話。
日野に現在、誠の文字とともに、○に井の字をいただく土蔵の井上記念館(五代目井上雅雄館長)があります。その井上家に口伝として伝わる話です。
 三十年位前はまだ日野には、御一新の時は…と云うより、瓦解の時は…と云う古老が少なくなかったと、日野の郷土史家・谷春雄先生が語られ、また以下のように指摘されてました。
 「しり上がりの三多摩弁と作家は云うが、多摩地方はしり上がりではない、それに、しきりに武州三多摩と言っているが、徳川時代は多摩郡であり、西、南、北の三郡に別れたのは明治初年で、近藤、土方、井上、沖田の時代は三多摩はなかった」と。

そんな谷春雄先生が記す、風貌が源三郎に似た泰助、その泰助長男・覚太郎の妻ケイさんの、泰助が語り遺した記憶語り。
 「源三郎おじさんは、普段無口でおとなしいが、思い込んだらてこでも動かない。…鳥羽伏見戦での命令、引けにも関わらず、戦い続けて遂に弾丸に当たって倒れ、手当て間もなく息を引き取った。…おじさんの首と刀を持って、大坂に引き揚げるため歩き出したが、首がこれほど重いとは思ってもみなかった。…一緒に引き揚げる隊士から『首を持っては一行に遅れ、敵に捕まる、残忍だろうが捨てろ』と言われ、とある寺の門前の田んぼを掘って埋め、舟で大坂に引き揚げた。誰か京都の方に行った時にはお参りして来い…」(1972年-八十二歳)
 この寺が日野にあるのと、偶然な欣浄寺だったかどうかは定かではありません。
 井上泰助、井上家伝に「泰助爺さんは近藤勇の刀持ちだった」ともあるように、近藤、土方が泰助父、松五郎に頼まれて個人的に小姓として雇った少年隊士でした。記録に子供とありますが、今の十二・三歳の比ではありません。

源さんの首
鳥羽伏見戦で、江戸に帰って「源三郎おじさんは伏見戦で討死なされた…」と、井上家に書簡をあてて伝えていますから、しっかりしたものです。(戦前まで現存していたが、現在紛失で行方不明)
「とかく論議される新選組の功罪や、源三郎の人物批評はともかく、我が家の歴史と伝承は新選組史料とともに永く譲り続けてゆきたいものである」(子孫が語る新選組)(1979)と、孫に当たる故井上信衛(ノブエイ)氏も、武田遺臣であり、1700年に八王子千人同人筆頭とあるのを誇りに語り遺されていますね。
 井上源三郎一重(日野八坂神社奉納額)、一武(墓石)。年齢は三十歳(生卒、天保十亥年三月一日、明治元辰年正月四日死、享年三十)・四十(新選組始末記)とも…。
 結局は首の行方は不明としか言いようがありません。もって、瞑すべし。
 なお、源三郎終焉については、井上資料館長も同行した市川三千代さん(2008)の、淀調査報告があるとの事で擱筆とします。

八王子千人同心と土方姓
武州八王子を中心に周辺村落に土着した郷士集団に、八王子千人同心があります。
甲斐と武蔵の国境警備、治安の任をなし、天正十八年(1590)の徳川氏が江戸入りに際し、甲斐武田の旧臣遺臣を中心に組織されました。
八王子千人同心に土方姓はないか、と千人同心姓名在所図表(嘉永甲寅季秋)を見れば、八王子周辺の日野荒井村に、土方姓の千人同心土方甚蔵さんがいました。あと、戸倉新田(国分寺)にも土方姓の土方兼五郎さんがおりました。武田家遺臣の千人同心に名を連ねる中に、土方姓があるのも大したもんです。多分、土方副長のお大尽生家土方家もどこか繋がりがあるのではないでしょうか。
 石田寺に行く途中、土方生家(土方記念館)からモノレール高架下に行く手前の北側に、今も大きな豪農屋敷があるかも知れません。(15、6年前でしたが)
  参考  江戸幕府千人同心史料(村上直編/1983文献出版)



[12] 携帯用掲示板からの転載

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 9月 2日(金)13時33分58秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

衣懸塚(きぬかけづか)   京都歴史研究会・代表
★京都市北区大徳寺の周辺・・
紫野(むらさきの)や北西の紫竹(しちく)は、源義朝の別邸 があって、常盤御前 が住んでいたという伝承により、源義経や母 常盤御前ゆかりの史跡が多い 。
船岡山の東麓(北大路通から三筋目)西に、建勲北中通り、北区紫野下築山町に・・・
『常槃井(ときわい)』がある  常槃井は、『常盤化粧井』とも呼ばれ、常盤御前が化粧 に用いた井戸と云われている。
 現在、井戸は涸れているが、「常槃井」と記した自然石が背後に建ち、貼り紙も最近はられた。
何故か…常盤の漢字が違っている?しかしこれは、私が調べた江戸時代の本 雍州府志によると…
常盤御前の[常盤]ではなく、鎌倉時代前期の公卿で西園寺公経の息子/西園寺 實氏(さいおんじ さねうじ)の…
通称/常盤井相國の事である事が分かった 。(常盤井宮(ときわいのみや)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した宮家。)
 だが、世間や観光本 、ネット上も全て、常盤御前の井戸と伝わっている ( 西洞院一条の[常盤井辻子]も常盤井相國の邸宅跡 )

 さて、本題に入ろう
その「常槃井」の横から民家 奥へ、細い路地を入っていくと、瓦礫が積み上げられた丸い塚がある。常盤御前の着物 が掛けられたと
言う伝承から『衣掛塚』『鏡塚』と呼ばれている  この伝承も、最近の後付けである

★数多くの史跡案内の衣掛塚ブログを見たが、殆どが、[ころもかけづか]と呼んでいる それは誤りで実際は[きぬかけづか]と読む。
江戸時代の地誌が、『絹懸塚』と記載されていたからである
(山州名跡志/巻之七[新修京都叢書]15、P.206、臨川書店、1994年二冊)

さて現在、周囲は廃材置き場のような少し不気味な雰囲気で、「築山之墓地」[正徳□年 利栄信女 三月十五日]と刻まれた石碑(墓)や、五輪塔の残欠石が置かれている。
 江戸時代の文化年間(1804~1817)の天皇陵調査では、この塚は、後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、『文化山陵図』にも、この塚は描かれていて、当時、塚は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水をたたえた溝があり、更に塚上には、大きな樹木 があったことが分かる。
 その後、天皇陵調査では・・・、衣掛(懸)塚は候補にも挙がらず、陵墓参考地にも成らず、見離されている 。
[聖域]扱いされても良い塚であったし 、当時の貴重な遺構の可能性もあるが、現在は、民家 裏の瓦礫が積み上げられ、荒れ果てた場所なので  民家が立ち退きや、新たな建物が建てられるならば、いつ破壊されてもおかしくない 残念な塚なのである
私が衣掛(懸)塚に行ったのは、 2009年と2013年だったが、一昨日2015年11月11日、久し振りに衣掛(懸)塚を確認しに行って来た 一段と無残になり、神木の注連縄は無くなり、石碑は倒れていた 開発破壊だけは免れていたのだが・・・
救いは、塚を囲む四~五軒の民家の一人の女性 が、掃き掃除をしていた事。但し、女性 にお尋ねしたところ、この塚を御守りしている人は誰一人いないと云う。

★参考文献 新修京都叢書第三巻/黒川道祐著/(株)光彩社
図説天皇陵/別冊歴史読本52 2003年7月12日発行(株)新人物往来社
          ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~~



[11] 携帯用掲示板から転載

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 8月31日(水)17時53分44秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

姫路勤王党          藤原改新
 1
姫路で本格的な尊王攘夷の動きが始まるのは、尊攘派が旗頭に据えようとしていた島津久光が薩摩兵千人を率いて上洛の途中、室津に上陸した文  久二年のことである。この時、室津には平野國臣ら諸国の志士が参集し、尊攘運動について意見交換をした。姫路からは秋元安民らが参加した。尊攘派の秋元はこの室津会合の様子と政情について、重臣らを前に私見も交えて報告した。仁寿山、梅ヶ岡に隠居中の河合良翰の関心の持ちようは尋常ではなく、更に詳細な情報分析を進める為、秋元らを京都、大坂に派遣した。「尊王の流れは止まらない」という報告をめぐり、議論は真二つに割れた。良翰は明確に尊王攘夷を打ち出し、物頭 河合宗元は率先してこれを支持した。これに対し、筆頭家老の高須広正は徳川譜代の立場から強く反対し、幕府第一を主張した。しかし、譜代といえども時代の潮流は受け止めねばならないと、尊攘派が次第に勢力を強めるのである。やがて、良翰は梅ヶ岡の山荘を出て自説に真っ先に賛意を表した宗元を指揮して、時局に積極関与するようになる。
 文久二年五月、酒井忠積が京都警護を命じられる。家老 河合良臣らと江戸から京都へ向かう。やがて京都所司代代理の任に就くのだが、これを機に姫路からも警護の兵を京都に呼んだ。京都では攘夷派の行動が次第にエスカレートし、反対派の暗殺を謀るようになっていた。前の関白九条尚忠の側近で、安政の大獄で攘夷派の徹底弾圧を指揮した島田左近が三人の刺客に殺害され、四条河原に首が晒された。この九条家には前の城主 酒井忠学の息女 銉姫が、尚忠の子 幸経の室として嫁いでいた。当時は妙寿院となっていたが、左近暗殺後、警戒の為に姫路から家士三人派遣し、夜間警護に当たった。
 そうした混乱の中、京都で麻疹が流行し、家老 河合良臣も侵され客死した。更に秋元安民も病に罹り死去。騒然とした京都にあって姫路から上洛した河合宗元らは、諸国の志士と盛んに交流を繰り返した。尊王攘夷の言動が次第に過激になり、ついに宗元は忠積の怒りに触れ、国許の姫路へ送り返されてしまうほどであった。

 その姫路で初のテロ 『天誅』が行われた。文久三年一月十二日、鍵町の御用商人 紅粉屋児玉又左衛門政光に天誅が加えられた。紅粉屋は町の六人衆の一人として権勢をふるっていた。筆頭家老 高須広正の庇護を受け、米の買い占めなどで町人の反発を買っていた。この紅粉屋を暗殺をすることで、姫路に尊王派の旗を揚げようとの政治的意図もあったのだろう。
 一月十二日深夜。河合宗元の養子 宗貞、江坂行正、武井守正らが謀り、網干、今在家方面の田地の見回りから帰る途中の紅粉屋を城下橋之町において襲撃、斬殺した。この首を風呂敷に包み、威徳寺町にいた紅粉屋の愛妾 おたきの元へ持ち込んだ。その後、大日河原で首級を晒し、『天誅』を加えた旨の捨文を掲げアピールした。

 その頃流行った俗謡。「蛸に骨なし海鼠に目なし姫路紅屋に首がない」。どぎつい表現だが、当時の「反幕世情」を背景にした庶民の感情が現れている。

姫路の紅粉屋襲撃に呼応して、姫路の志士が京都で公武合体派の公家 千種有文の家臣 賀川肇を暗殺するという事件を起こした。文久三年一月二十八日である。実行者は姫路から上洛して、桂小五郎、久坂玄瑞、真木和泉らと交流し、尊王攘夷運動に没頭していた萩原正興、江坂行厚らである。攘夷の実行を求める動きは姫路の他の志士にも急速に広がり行動も過激化する。賀川暗殺の半月後、萩原正興らは河合宗元と謀り、攘夷実行に逡巡する幕府の態度を改めさせる為、死をもって建言することを決意する。尊攘派の公家 姉小路公知邸へ、その旨を告げに訪れた。姉小路卿は志を了としたが、自害を諌めた。(この姉小路卿も同年五月二十日、京都御所の朔平門外にて襲撃された。)

 同年八月十七日に大和で、十月十二日には生野で、尊攘派による義挙が相次いで起こったが、義挙は失敗に終わった。又、大和義挙の翌日、八月十八日宮中において、会津、薩摩の密謀による尊攘派一掃を図るクーデターが起きた。この義挙とクーデターに姫路の志士も多数関係する。
 大和義挙では、紅粉屋暗殺を謀った河合宗貞、武井守正らが資金調達に奔走した他、元小川村の住人の北村義貞は直接襲撃に参加した。北村義貞は生野義挙でも武器運搬などで加勢したが、他の志士らは鎮圧側に回っている。ただ、平野國臣らは飾磨から船場川を遡り生野を目指しており、その途中、姫路城下で志士らと何らかの接触があったのではないかと見られる節もある。一方、クーデターでは、江坂行厚、伊舟城致美、萩原正興ら在京の志士が、長州に落ちる三条実美らの馬側に従い警護に当たった。
 3
元治元年春、思いを遂げられない苛立ちの中で、河合宗貞、江坂行正(行厚の弟)が、ついに国抜けをする。幕府も国許(姫路)も因循姑息で新しい時代認識がないという怒りからであった。こうした志士の動静に対し、極端な警戒心を持っていたのが、家老の高須広正である。

 高須は二人の国抜けを奇貨として、志士の一掃を謀った。徹底捜査を命じるとともに、親族、縁者への追及を強めたのである。先ず、宗貞の養父で、尊王派の一方のリーダー 河合宗元の追及が始まった。宗元の身を案じた長州、鳥取の志士が逃走を促したが、宗元は従わず獄に下った。又、宗貞の実父である境野意英にも追及が及んだ。意英は高須の姉婿でもあった。高須の追及は、時に姉にも迫り苛烈を極めた。意英は京都にあった時、宗元ら志士に共感し、情報交換や会合場所として彼らに自邸を提供していた。城主の忠積が志士の活動を快く思わず、大っぴらな集会を阻止しているのを見て、密会所として京都の自邸を密かに提供していたのだった。高須はこの事を知っており、意英の家士を陥れ、その秘密会合の関係書類を入手した。これによって、姫路志士の動静と、その背後の動きや人脈が一気に解明されてしまったのである。この密謀は高須によって、こと細かに忠積に報告された。その結果、同年四月、志士のリーダーで二年前の文久二年家老に復帰したばかりの河合良翰を、江戸 染井村に幽閉した。それと前後して厳しい取り調べを受けていた境野意英が自ら命を絶って抵抗した。その直後から志士らの一斉検挙が始まった。
 国抜けした河合宗貞、江坂行正は長州入りを図っていたが、捕らえられ、姫路の獄につながれた。紅粉屋殺害に呼応して、京都で千種有文の家士 賀川肇を暗殺した萩原正興、江坂行厚、伊舟城致美、松下綱光、市川久明をはじめ、武井守正らも次々と逮捕された。

 その年の暮れ、彼らに厳しい断罪が下された。
 紅粉屋殺害の上、国抜けした二人に斬首、賀川肇暗殺容疑者の五人と河合宗元に自刃の命。彼らと行動を共にした六人には終身刑の永牢、さらに河合宗元、宗貞につながる縁戚の河合良翰をはじめ、各関係者、親族一門にも家禄没収、蟄居謹慎、差控等、総計七十人に及ぶ厳しい処罰が言い渡された。元治元年十二月二十六日、処分発表と同時に即日、刑の執行も行われた。甲子の年に当たることから、後に『甲子の獄』と呼ばれる。




[10] にはいだった

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 8月28日(日)23時41分27秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

京都歴史研究会・代表さま
アクセスありがとうございます

これからはジックリと歴史が見直される時代に入った様ですね…


「太平の眠りを覚ます
 上喜撰(じょうきせん)
 たったしはいで
 夜も眠れず」

   ↑
蒸気船はにはいで、あとのにはいは風帆船だった
にはいの風帆船が黒潮の潮流に流されない様に、にはいの蒸気船で引いてきた、そうです。



[9] 鎖国はなかった

投稿者: 京都歴史研究会・代表 投稿日:2016年 8月28日(日)21時25分38秒 wb94proxy06.ezweb.ne.jp  通報   返信・引用

  黒船来航を機に日本は開国、鎖国は終わりを告げた。

しかし江戸時代、日本は鎖国をしていなかった。

そんな鎖国令なる制度もなかったと、教科書に掲載の江戸幕府の外交政策の『鎖国』の用語は、

『士農工商』と同じく、死語となり、消えることになるかも知れない。


「太平の眠りを覚ます
 上喜撰(じょうきせん)
 たったしはいで
 夜も眠れず」
嘉永6年6月3日(陽暦1853'7'8)、米国東印度艦隊(ペリー艦隊の黒船)来航!


この時、幕府は日本人の海外渡航を禁じ、
①朝鮮(対馬藩が交渉)
②オランダ,中国(長崎出島が窓口)
③アイヌ(松前藩が交渉)
④琉球(薩摩藩が交渉)
以外の海外と交渉しない、先祖伝来のシキタリ『祖法』だとして、ペリー艦隊を追い返そうとした。

だが、この祖法は、以前の教科書に記載されていた江戸時代の初めからあった鎖国令制度ではなかった。

実は、寛政の改革で有名な、
老中:松平定信が、寛政4年(1792)に来航したロシア船へ対応した『祖法』だったのであるNo.1!

祖法
◇通信なき国の船は召し取り、打ち払う国法が古くからある。
◇通信なき国王からの国書は往復を許さない原則がある。


『鎖国』という言葉も、享和元年(1810)オランダ商館の医師ケンペルの書いた日本誌という本が訳された時(オランダ通詞:志筑忠雄訳)
『鎖国論』と通称で名付けられたに過ぎなかった↓

確かに江戸時代後半に一部の国に対して、鎖(とざ)していた時期はあったが、

鎖国なる言葉、制度もなかった。


参考文献:日本の歴史/新・真実発売:ファミマ・ドット・コム


写真:慶長14年(1609)徳川家康がオランダ使節に与えた朱印状。「日本のどこにも寄港して良し」と記してある。



[8] 投稿。書き込みお待ちしてます

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 8月28日(日)14時38分48秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

歴史に興味のある方、何方でも遠慮なくどうぞ♪

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[7] 手掛かりに

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 8月28日(日)12時18分26秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

少々 興味を覚えまして・・・



[6] 投稿移転 織田信長の関係者たち

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 8月25日(木)16時29分21秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

京都歴史研究会・代表投稿

織田信長の関係者たち
織田信雄
信長の次男、織田 信雄(のぶかつ:1558~1630)母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。大和宇陀松山藩の初代藩主。    初め伊勢北畠家の養子に入り、第十代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。(最終的に北畠家を掌握した)
天正十年六月二日(1582)本能寺の変で信長と長男:信忠は共に倒れた。この時、信雄は伊勢松島の居城にいた。変報を受けると直ぐに軍を率いて伊賀を越え、近江甲賀郡土山に出た。(記載:安養寺文書⇒備前国の山岳仏教系の古寺、宝物と多くの古文書が残る。記載:勢州軍記⇒伊勢戦国史,神戸良政が記した。)
しかし、伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、それより西に軍を進ませることができなかった。蒲生郡日野には、信長の妾子が保護されていて、これを支援するのが精一杯で、とても弔合戦など余裕がなかった。(直前に催された、信長の三男:信孝を将帥とする四国攻めに、信雄の采配下の伊勢衆も多く動員されたからではないかとされる。)
明智光秀と戦うには、兵力が不足していた。
秀吉の時代、小田原征伐の論功行賞で、加増ではなく、父信長の祖の地:尾張と北伊勢五郡は没収され国替えとなった。(この時、家康は関東へ転封)
信雄は国替えを拒絶した為に改易され、下野国烏山に流罪となる。秀吉に嵌められたのだ。

 文禄(元年:1592)の役を迎え、流罪を許され名護屋へ招かれた。その後、信雄や信長の弟:有楽斎(うらくさい/長益)は秀吉のお伽衆となった。
信長から、猿・はげ鼠と呼ばれた秀吉に対して、妙なプライドを捨てたのか?媚び諂(へつら)う生活を選んだ。
 秀吉の死後、大坂天満屋敷に住み、関ヶ原の戦いの時は傍観。嫡男:秀雄は秀吉からもらった越前大野郡の亀山城主だが、関ヶ原では当初は東軍ににつき西軍の加賀大聖寺城攻めに参加。その後、信雄の命で西軍に転じた。身を寄せた。
 信長の弟:有楽斎(長益)は嫡男:長孝とともに東軍に参加し軍功を遂げる。同じく信長の弟:信包(のぶかね)は西軍だが戦地は関ヶ原ではなく丹後田辺城。しかし、息子:信重(伊勢林一万石)は東軍に就かせ保険をかけた。
 本能寺で死んだ信忠の息子は、西軍で戦地は木曽川など。
よって織田は、東西のどちらが勝ってもいいように二股をかけた。九鬼、津軽、真田のごとく。

 そして織田同士は戦わないようした。
 大坂の陣のとき、信包は死没していたが、信雄は先に片桐且元の殺害計画があることを本人に知らせ大坂を脱出させ、徳川に大坂の内情を知らせ、自らも脱出した。
 信雄の戦功から(家康の織田家を存続させる温情か)、元和元年(1615)、上野国甘楽郡(かんらぐん,群馬県)に二万石・大和国宇陀郡に三万石の領地を得た。上野国小幡藩では養蚕などの事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。
 安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。
 やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り、現:中京区西洞院三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)に隠居した。宇陀に出向くことはなく、能や茶の湯など優雅に暮らした。柳水町は正に、千利休が茶の湯に利用した[柳の水]の名水が出る場所だから。寛永(1624~1645)初年に、北野五辻に転居して没した。享年73歳。
 若い頃の天正伊賀の乱や小牧・長久手の戦いでの失敗はあったが、信忠や信孝といった直情型の兄弟とは違い、世渡り上手だった。生き残ったことで、成功者だからだ。
◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)
信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第二代藩主。高長系織田家初代となり。

三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多胡,碓氷併せて 二万石を分与され、その子孫は出羽国村山へ転封、この流れが、山形の天童藩で、最後の藩主/織田信学(のぶみち)は明治に子爵となり、天童県知事となった。転封があったケースもあるが明治維新まで生き残った。
さらに信雄の娘:八重姫と家臣だった土方雄久の嫡男:雄氏を娶らせた。雄氏は菰野藩初代藩主となり明治まで生き残る。
 徳川は豊臣潰しをし、幼子の命をも躊躇せず奪った。しかし織田には気を遣い、二代:秀忠ですら苦難の秀雄を救い、三代:家光は信雄を茶会に招くなど配慮を示した。結果、信長の宗家は残っていないが、信長の血は脈々と生き続けている。スケーターの人や、宗家と名乗って活動している人らは別として。




[5] (投稿移転)本能寺の変について

投稿者: 管理人 投稿日:2016年 8月25日(木)16時18分49秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

京都歴史研究会・代表投稿


A 本能寺の変・前日の茶会について
 博多の豪商:島井宗室が五月中旬から京都に滞在していたが、六月初旬博多に向けて京都を立つと、信長に知らされた。ところがこれこそ信長を京都におびき出すための「罠」だった。
 援軍を要請する羽柴秀吉の早馬により「天下布武」達成の最後の決戦、西国制覇のため自らも軍勢を率いての出陣を決意したところ、明智光秀、筒井順慶の軍が上洛する前に一足早く京都に赴き、ぜひとも「楢柴肩衝」の話だけはつけておきたい信長だった。
 当時、茶会を開いたり、茶道具収集は武士の権力を表すステータスであったし、無論、政治に茶道を利用した信長は(御茶湯御政道)この島井宗室が持つ楢柴肩衝を手に入れたかった。
 そのため千宗易から島井宗室に連絡をさせ、「六月朔日なれば、上様の御館(本能寺)に参上仕る」との確約を得たのであろう。
 こうして信長は安土城から38点の「大名物茶器」を運んで「楢柴肩衝」の茶入欲しさに五月二十九日の大雨の中、無防備な形で、本能寺に入ってしまったのだ。(38点の「大名物茶器」に関して、「本能寺の変」より十一年後の文禄二年(1593)、堺の茶人の宗魯によって筆録「仙茶集」の中に「島井宗室宛て長庵の道具目録」あり)
 この初夏の茶会は、当時の慣習としては当然「朝茶会」であった。島井宗室、神谷宗湛たちが茶道具の名器を十分湛能してから、信長へ表敬訪問に来た近衛前久など公卿41名と商人がやってきた。(これは山科言経日記に、関白以下大臣、前職までの公卿名が記され、宮廷がそっくりそのまま本能寺に移動したかのような様子が判る。)

B 本能寺の変・前日の茶会の陰謀
 ところで「朝茶会」の茶頭(さどう)をしたの誰か。
 信長の三人の「御茶頭」のうち、今井宗久、津田宗及の二人はその日は堺にい、賓客の徳川家康、穴山梅雪一行の接待をしていた。そして不思議なことに、残る一人の千宗易は、何故か暫く行方不明になる。
 そこで茶頭として考えられるのが、長谷川宗仁(そうにん)である。長谷川宗仁が「本能寺茶会」に居合わせた可能性は高い。信長に仕えながら「本能寺の変」を羽柴秀吉にいち早く通報したというのが通説化しつつある(後年は秀吉の寵臣になる)と。そして、博多の豪商の二人島井宗室、神谷宗湛を茶会に招く仲介役として浮かぶのが千宗易である。
 五月二十八日、少庵(千宗易の養子)宛てに出した千宗易直筆の手紙が残っている。「…上様御上洛との由、承った。播州(秀吉)はどうなっているのか? 情報わかり次第、早々に連絡請う。」…と。
 書状を少庵に出して、本能寺茶会を千宗易が知らないわけがない。本能寺茶会を勧めていた宗易は、六月十日前後に尼崎で中川清秀(茨木城主)と会って、漸く、消息を表す事になる。



[4] よろしくです

投稿者: 管理人 木曽武 投稿日:2016年 8月24日(水)11時16分12秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

杉さんぼくさん
写真 きれいに映ってますね♪
これからも ( `・∀・´)ノヨロシク お願いします



[3] よろしく

投稿者: 杉さんぼく 投稿日:2016年 8月24日(水)08時52分29秒 KD182251249039.au-net.ne.jp  通報   返信・引用

新しいバージョンアップですね。



[1] 掲示板が完成しましたキラキラ

投稿者: teacup.運営 投稿日:2016年 8月23日(火)17時21分15秒 125-9-52-27.rev.home.ne.jp  通報   返信・引用

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